そこで油を冷やし成分を結晶化させた
「薄荷(はっか)脳(のう)」と
その残りの「薄荷油(はっかゆ)」に分けるのです。
佐藤さん
「ハッカは世界中にあるんですが
日本とヨーロッパでは大きな違いがある。
それは結晶ができるかできないか。
ヨーロッパのハッカは日本のに比べて
(結晶になる成分が)少ないので
頑張っても結晶が取れないんです。
それで日本の結晶がどんどん世界に
買われていったから世界の70%を占めた
という時代ができたんです」
佐藤さん
「例えば…田んぼがありました。
田んぼをつぶして畑に使用とすると
大変なんですよ。色んな土を入れて
土壌をかえなきゃいけないでしょ。
だけど玉ネギの場合は
ハッカの根っこを全部取ったら
玉ネギが同じ条件で育った。
土をいじる必要がなかった」
森崎
「転換がうまくいったんですね」
ハッカが衰退の一途をたどる頃、
玉ネギの生産地を拡大する動きが盛んでした。
ハッカを育てていた畑を有効的に使える
‘玉ネギ’はハッカ生産者にとって救世主!
こうして北見市を中心に
タマネギの栽培が増えたのです。
森崎
「運命めいたものを感じますね、
すごいことがハッカクしましたね」
佐々木「ハッカだけに…」
藤尾
「なんでしょうか。
今のダジャレでスキッとしましたね」
森崎「ハッカだけにね!」
ここで雰囲気をかえて…
訓子府町とタマネギ
(みなさん弁士のイメージで!)
薄荷の栽培が下火になる中、
生産量を増やしていった作物
それが‘タマネギ’だったのでございます。
北見市の隣町・訓子府町に
タマネギ栽培がもたらされたのは1919年。
後に訓子府町のタマネギ栽培の父と呼ばれる
五十嵐林作(りんさく)がこの地域の土に
着目した事に始まります。
林作(カケル)
「この土なら玉ネギ作れっかなあ」
彼は札幌の丘珠でタマネギ栽培の経験を
積んでいたのであります。
林作
「や~いみんな!この玉ネギっていう
外国から来た野菜。
みんなで作ってみない?」
農民1(リョウスケ)
「玉ネギ?玉ネギなんて初めてみたぞ」
農民2(アヤノ)
「なんか面白そう!作ってみようよ」
農民3(エマ)
「よし!作ろう~頑張るぞ~おー」
1935年、本格的に始まったタマネギ栽培。
収穫したタマネギは売れに売れ、
大変高価な値がついたのであります。
訓子府町の農民もタマネギ栽培に熱中!
しかし…